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キモオタの発祥に見るコンテンツ社会の臨界点小寺信良(1/3 ページ)

» 2005年11月14日 10時00分 公開
[小寺信良,ITmedia]

 数年前までは一種のカルチャー用語であった「オタク」も、テレビや新聞など一般メディアが取り上げるようになって以来、普通名詞となりつつある。それだけ世の中にオタクが増えた、という見方はあまり正確ではなく、この場合は単にオタクと呼ぶべきスレッショルドが下がっただけ、と捉えるべきであろう。

 オタクとい う言葉が発祥した80年代、この言葉の語感はもっと反社会的、ではないな、どちらかと言えば脱社会的な響きを持っていた。当時同じようなカルチャー用語に「ビョーキ」があったが、双方とも社会的不適合性という意味では、同じようなものであったろう。

 だが「ビョーキ」のほうは、それほど長期に渡って使われなかった。そもそもこの言葉の基盤となった文化とは、YMOを中心としたテクノミュージックであり、それに派生するテキスト、美術、パロディであった。そしてその象徴の「散解」により、「ビョーキ」を構成していた層は徐々に解体されていく。それに傾倒していた学生らは、多少おかしなやつでも飲み込んでしまうバブル経済社会へと組み込まれていったのである。

 一方で「オタク」という言葉が長く生き残ったのは、それに象徴される社会事件が、時折世間をにぎわしたからだろう。猟奇的な性犯罪事件は、ことごとく「オタク」のせいとされた。逆説的に言うならば、犯罪を犯すのは個々の問題なのだが、その背景を語るときに十把一絡げで「ああいう人たち」を総称できる「オタク」という言葉は、便利だったのである。

 ただ近年、オタクによる市場経済効果を試算するなどの試みが行なわれていくに従い、「オタク」という語感の持つ脱社会的な部分が抜け落ちてしまった。以前にもブログのほうで書いたことがあるが、オタクという言葉は次第に清潔なものになりつつあるのだ。(字面的に「ヲタク」と書く場合は若干ニュアンスが違うのだが、ここでは話し言葉の発音として、「オタク」に統一させて貰う)。

「キモオタ」の発祥

 いくら言葉から脂っ気を抜いたとしても、すぐさまそれに対応して人間が変化するわけではない。冒頭にも述べたが、要するに名指ししていた層が変化しただけなのである。筆者が体感的にこの推移をまとめると、以下のようになろうか。

  80年代 90年代 00年代
脱社会的
  |
社会的
オタク オタク キモオタ
マニア   オタク
一般人 一般人 一般人

 あくまでも筆者はこう感じる、ということなので、根拠を求められてもそんなものありはしないのだが、ここはもっともらしく説明してみよう。

 まず90年代に、いわゆる旧来のマニアと言われる層の行動が社会的に目立たなくなった。バブル経済の崩壊により、お金のかかる趣味に没頭する人が少なくなったということもあるだろうか。筆者の知るところでは、高級オーディオやホームシアターなどの趣味は、いったんこの時期に衰退している。マニア層を相手にしていた商売にとっては、まさに失われた10年である。

 継続的に使われない言葉は、古くなる。00年代を迎えてまた趣味などを始める多少の余裕が生まれると、かつてのマニア層を総称する言葉が空白となる。どうもその部分に、「オタク」という言葉を多少ライトな感覚で当てはめていったのではないか。

 00年代に入ってからの「オタク」は、以前であれば趣味人や通(つう)であることの、自嘲的なニュアンスとして成立しつつあるように感じる。例えば「隠れオタク」などという言葉があるが、リアルに80年代のオタク像を当てはめると、そもそも隠れることが可能な時点でオタクではない。かつてのオタクが意味した層は、普段からの見た目や言動に社会的な適合性を持たないため、隠れる、すなわち一見通常の社会人と同等であるように見せかけることができなかったのである。

 「オタク」という言葉が指し示す層が下へずれてくると、かつての「オタク」を指す部分が空白となる。そこに入るべき言葉をいろいろと考えたが、感覚的に近いのは「キモオタ」だろうか。

 その発祥時においては、「キモオタ」の指し示す範囲は狭く、アイドルや声優の過激なファンを指す言葉とされていた。それが次第に字面から解釈拡大が進み、かつてのオタクのポジションに収まりつつある。

 ただこの言葉が、これまでのオタクに類する言葉と決定的に違うのは、自称する言葉ではないというところである。むろんかつての「オタク」という言葉も、発祥当初は自称する言葉ではなかった。一般人から見て理解できない趣味の傾向に名前を付けることで、概念化したに過ぎない。

 オタクという言葉が延命した理由は先ほども述べたが、もう1つ、自称する言葉として用いられたから、という要因は考えられないだろうか。すなわち一連の社会事件を通して、被差別を受け入れるというムーブメントがあった、ということである。そうして自称が可能な言葉であるがゆえに、レベルを下げて普通名詞化することも可能だったのではないか。

 この状態は、かつての「ビョーキ」が自嘲的な響きを持ちながらも、その中に多少の選民的な要素も含まれていた感じに近い。

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