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デジタル技術が身の丈を超えるとき小寺信良(1/3 ページ)

» 2006年10月02日 09時36分 公開
[小寺信良,ITmedia]

 最近は、50〜60年代に作られたカメラを分解して修理するのが趣味となっている。このデジタルの時代に何やってんのかなぁと自問する気持ちもないではないが、いろいろなことが分かるというのが面白くて止められないのである。

 具体的に何が面白いのかというと、とにかく機械の動きだけで理想的な動作をしようとする、その懸命な努力に驚愕し、知恵に関心し、発想に嫉妬する毎日なのである。当時としてはどうしようもない技術的限界がありつつも、この方が絶対いいに違いない、という理想が常に高くあった。今までに存在しないものを作り上げようとする情熱は、ともすれば理想を見失いがちな今の時代において、なんだかうらやましい気がする。

 一方で20世紀末に起こった映像のデジタル革命は、あっという間に世の中を席巻した。しかし、理想は超えられたのだろうか。

何が革命だったのか

 デジタル映像と言えば、デジタルカメラとデジタルビデオカメラが現代の双璧である。すでに動画が撮れるデジカメがあり、写真が撮れるビデオカメラがあるといった具合に、お互いのテリトリーを浸食しあっている感があるが、そもそもこの両者は出発点が違っていた。

 デジタル方式のビデオカメラであるDV規格のカメラが市場に登場したのは1995年であったが、誕生した時点ですでにビジョンは完成していた。アナログビデオカメラの完全リプレースである。

 デジタル以前、すなわちアナログのビデオカメラにはVHS-CフォーマットやHi-8という規格があり、これは現在でも通用する映像を撮影することができた。それをすっぽりデジタル化するとどうなるか、という形が、DVカメラだったのである。

 動画映像のデジタル化は、プロの世界では1985年にソニーがD1フォーマットVTRを発表した時点から本格的にスタートした。もちろんそれ以前にもデジタルプロセッシングを利用した機器はあった。

 例えば映像のエフェクタであるDVE(Digital Video Effect)は、アナログの映像をAD変換したあと、デジタルプロセッシングにより映像を変形させる。そして出力はDA変換してアナログラインに戻してやる、というようなものであった。

 だがそういう特殊用途ではなく、通常の伝送ラインや記録媒体をデジタル化することの恩恵は、ダビングや伝送による劣化がないということである。これまでは「変形させる」ために使ってきたデジタル技術が、まったく逆に「変形しない」という強力な武器になったわけであり、常に画質劣化と戦ってきた映像技術者にとって、このインパクトは大きかった。

 基本的にDVカメラは、放送機器におけるこの大革命を、コンシューマーに持ち込んだものだったのである。

 一方、デジタルカメラはその原点について諸説があるが、液晶モニタ付きという現在のスタイルを広く世に知らしめたのは、カシオQV10が最初であったことに異論はないだろう。この発売が奇しくもDVカメラと同じ、1995年であった。

 当時のデジタルカメラは、解像度が今とは比較にならないほど低く、フィルムで撮るカメラとはまったく別物であった。それでも大ヒットしたのは、「きれいな写真が撮りたい」という目的ではなく、まったく別の用途で使えるという可能性に、多くの人が気がついたからである。

 ところがいつのまにかデジタルカメラは、世代を経て改善されていくうちに、銀塩カメラを理想像として掲げるようになった。そして今すでにその領域にまで達したことで、理想としていた銀塩カメラを駆逐してしまった。

 カメラ史からみれば、正当な進化のように捉えてしかるべきデジタルカメラだが、黎明期には別の夢を見ていたはずなのである。そこでわれわれは、おぼろげながら見えかけていた何かを見失ってしまった。

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