自由であることは容易ではない。自由に生きようとしたら、その引き換えに、多くのものを支払わされる。しかしだからこそ、人は自由に焦がれる。代償を伴ってでも自由になろうとする人間に、そうなれない者は憧れを託す。
だが、神は決して人間の自由を許さない。3人を追うワイデル保安官は信心深いキリスト教徒で、“キング・オブ・ロックンロール”ことエルヴィス・プレスリーの大ファン(エルヴィスは敬虔なクリスチャンとして有名)だ。キングをけなすオタク映画評論家の首を絞め、おとそうとするギャグシーンもある。
実はワイデルは前作で一家に兄を殺されており、彼らに深い恨みを抱いていたのだった。彼はいつしか保安官としての領域をゆるやかに逸脱してゆく。殺し屋を雇い、オーティスたちを私的制裁にかける計画を練る。殺人者を探し求めるうちに、彼もまた殺人者となっていくのだ。
自由としての暴力と、復讐のための暴力。オーティスとワイデルは己の魂を懸けて、殴り合い、そして殺し合う。ワイデルがオーティスを拷問にかける場面で、彼らの顔は苦痛と痛めつける快感でグニャリと歪み、兄弟のように似ている。
キャプテン・スポールディングの名前は、マルクス兄弟の映画「けだもの組合」(30)のキャラクターからとられている。オーティスは「オペラの夜」(35)から、ベイビーとその母の姓ファイアフライは、マルクス兄弟の代表作「我輩はカモである」(33)からの引用だ。殺人鬼一家の名をコメディ・グループからいただくとは監督ロブ・ゾンビのよじれたユーモア・センスだけれど、込められているのはユーモアだけではない。
マルクス兄弟は、20年代後半から30年代のショウビズ界で絶大な人気を博した実の兄弟によるグループである。その芸風は徹底的にアナーキズムで、権力を笑い飛ばすことにかけては今現在に至るまで並ぶ者がいない。特に「我輩はカモである」は、架空の国を舞台に政治家と近代戦争をギャグたっぷりに風刺して、ムッソリーニを怒らせてしまいイタリアでは上映禁止になってしまった。
ナチス批判も含んでいたのでアメリカの親ナチ派からは突き上げられ、批評家の評価も興行面も芳しくない結果となり、製作会社のパラマウントからは契約更新を打ち切られた。これを機に末っ子のゼッポは脱退し、兄弟は35年の「オペラは踊る」まで、しばし低迷期に入った。
現在では「我カモ」はマルクス兄弟の最高傑作の1本に数えられているが、当時の人々は彼らを理解しなかった。マルクス兄弟はあまりにもアナーキーで、恐れ知らずで、第二次大戦に世界が足をそろえて向かってゆく中で、権力にも社会にも迎合しようとしなかった。その自由な魂を、同時代にあった多くの人々は理解できなかった。
マルクス兄弟の映画から名前をいただいたファイアフライ一家もまた、現代社会や一般常識に楯突こうとするアナーキストだ。この文章の頭で書いたように、実にアメリカン・ニューシネマ的だ。
そしてニューシネマの主人公たちは、強大な社会に勝つことは、決してできない。もしも勝ってしまったら、今度は彼らが命を懸けて蔑んできた権力側になってしまうからだ。人間ではなく、権力の犬に。問題なのは、勝つことではなくて、闘うこと。
お前は自由のために闘うことができるのか?
ファイアフライ一家の道行きはそんな問いかけをずばりと突きつけてきて、鬼畜殺人鬼な彼らに私は激しく感情移入してしまったよ。なんてこった!
監督ロブ・ゾンビを始め、オーティス役のビル・モーズリイ、ベイビー役のシェリ・ムーン・ゾンビ(ゾンビの嫁)たちが撮影の合間をぬってインタビューに応えるメイキング映像「製作の舞台裏」では、みんな口を揃えて「酷いやつらだよなー、この一家は」と言っているのだ。自覚してるんですね。
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