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創造のサイクルを考える小寺信良(1/3 ページ)

» 2007年04月16日 08時00分 公開
[小寺信良,ITmedia]

 4月12日、「著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラム」のトークイベントが行なわれた。トークイベントとしては今回で2回目だが、三遊亭圓窓師匠の落語を創るプロセス、そしてマイクロソフト 最高技術責任者補佐 楠正憲氏の、なぜソフトウェアが著作権で管理されるに至ったかの経緯などが興味深かった。

 落語とプログラム、同じ著作物として著作権法の対象となるコンテンツとして、これほどコントラストの高い組み合わせは珍しい。ここで筆者も、テレビ番組やPVといった映像作品の制作のプロセスを、自らの体験をふまえながら考えてみたい。

 トークイベントではコーディネーターの金正勲先生が、クリエイターとしての創造性はまったくゼロから作り出すものと、既存にあるものを組み合わせる2つのパターンがあると、質問の口火を切られた。筆者は現在のようなモノカキになるまで、映像クリエイターとして17〜8年現役でやってきたわけだが、映像作品という世界において、まったくゼロから作るということが有り得るのだろうか、と自問してみた。

 番組の企画・構成といったところは筆者の範疇ではないが、実際に映像をいじくっていくところの世界だけで考えていくと、共同著作物においてはどんな場合でも、まったくの下敷きなしでは作れないのではないかと思う。例えばディレクターがオープニングタイトルのイメージを、クリエイターに伝えるとする。そのときにお互いの共通認識として、サンプルが必ず必要になる。例えば「あの番組のオープニングのノリ」とか、「あの映画のタイトルの出し方」とかで、お互いいまだ形のないものに対して既存のイメージを摺り合わせていき、制作に入るわけである。

どうやって映像タイトルは作られるか

 だからクリエイターは、自分の見識を広げるため、沢山の作品を見る。映画でもアニメでも、テレビ番組やコマーシャルにいたるまで、丹念に見ておく。

 もちろん、それらと同じものを作る、ということはない。だが制作する試行錯誤の過程で、見よう見まねで同じものを作ってみることはある。同じものを作るということは、非常に勉強になるのだ。一見簡単そうなエフェクトでも、実際に自分で作ってみると物理的矛盾でどうしても同じものができないことに気づき、思わずオリジナルを作った技量とアイデアに感服することも少なからずある。映像クリエイターとは、そうやって成長するものなのである。

 そうした実験と挫折の上で、もっと自分にとって効率的に、あるいは今回のテーマに対して効果的にやれる方向へアレンジしていく。少なくともバランス感覚がある人間であれば、よその作品専用に作られたものをまったく違う内容のところに持ってきて、ピッタリはまるはずがないということはわかっている。だから参考にする下敷きとなる映像作品はあるにしても、必ずオリジナルとは違うものになる。

 筆者は長いこと商業芸術というジャンルでやってきたので、制作の方法論は前衛芸術や抽象画などとはまた違うことだろう。しかしマスで支持されるものを作るためには、必ずどこかで共通認識のベースを下に敷かなければならない。ただ目をつぶって心の内なるものを描き殴っただけでは、普通は売り物にはならないのだ。

 先のトークイベントで芸術作家の椿昇氏がおっしゃったのは、現代美術はBtoBが基本で、著作権などほとんど関係がないという事実だ。その一方で「コンテンツ」というものの定義を考えた場合、これは商業流通に乗った大衆向け芸術作品であり、著作権法によって取引ルールが決まっているものと言える。したがって著作権云々で「ゼロからものを作る」という話をメインストリームに据えてしまうと、なんだか尻の座りが悪い。

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