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ケータイメールが奪ういくつかの大切なこと小寺信良(2/3 ページ)

» 2007年12月17日 08時30分 公開
[小寺信良,ITmedia]

 その象徴的なものが、ケータイメールである。例えば我々の中学生時代を振り返ってみると、ケータイなどはもちろんなかった。したがって家に帰ってしまうと、同級生やクラブの友人らとは関係が切れてしまって、今度は家族という人間関係に切り替わっていたものであった。

 しかし今の中学生は、通学中だろうが家に居ようが、場所と時間に関わりなく、常にメールで誰かと繋がっている。物理的制約によって関係が途絶えるということがないため、ひとたび人間関係でトラブルが起これば、クールダウンする余裕もなく、いつまでもそれを抱え続けることになる。

 最近の中学生は、人間関係に追い詰められて死を選ぶ、あるいは簡単に死という選択に踏み出してしまう傾向があるように思う。以前はいじめによる自殺は学校で起こったものだが、最近は家庭で起こっている点から考えても、家庭はもはや、精神的な面での安全な場所ではなくなってしまったと見た方がいい。

 死を選ぶ傾向は、ある分野からはゲームの影響であるという意見も聞くが、筆者はケータイによって四六時中トラブルから離れられなくなっているということも、子供達を追い詰める結果になっているのではないかと考えている。

 その根源を辿っていくと、メールというツールのあり方が、テクノロジーの進化によって、意味が変わってきてしまったということがある。そんなつもりでできていないツールなのに、違う使い方を生み出したことによる歪みとも言えるだろう。

 かつてパソコン通信時代のメールは、相手がいつ読むかもわからない、本当の意味の「電子メール」であった。したがって早急に用件が伝わることは期待しなかったし、さりとて電話するほどでもないという程度の用件を伝えるには、便利なものであった。インターネットの黎明期などは、届くかどうかもよくわからんが、とにかくみんなでがんばってみる、ぐらいの伝達能力にまで退化した。そもそもメールとは、それぐらいのものであったのだ。

 しかしITインフラが驚異的なスピードで安定し、確実に遅延もなく伝わるということがわかってから、メールは一方的に用件を伝える「手紙」ではなくなったのだ。「すぐに返信しなければならない」という精神的な縛りによって、現代のケータイメールは、チャットに近いものになった。

 筆者も時々、仕事やプライベートでSkypeやメッセンジャーといったチャットを使うが、あまり慣れていないせいか、どうやって話というかチャットを終わらせるか、悩むことも多い。突然発言しなくなるのも変だし、じゃあ抜けるね、といって落ちたあとどんな話になるのかも気になるしで、なかなか終われなかったりする。

 おそらく中高生のケータイメール合戦がなかなか終われないのは、終わらせ方がわからないという事もあるだろう。しかも文章のみの限られたコミュニケーションは、それだけ面白くもあるが、時間もかかるし、誤解も生みやすい。誤解を解くにも、直接通話をすれば1分で終わる話が、メールであれば1時間はかかる。

 こうして多くの時間が、ケータイメールに費やされてゆく。

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