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「撮影」の暴力化について考える小寺信良の現象試考(1/3 ページ)

» 2008年07月22日 10時30分 公開
[小寺信良,ITmedia]

 7月4日に開かれたニコニコ動画のイベント「ニコニコ大会議2008」の中で、画面に映った一般人に対してヤジや中傷が書き込まれるという「事件」が起こった。またそれの少し前には、秋葉原連続殺人事件の現場の模様をUStreamで中継したことによる是非が問われた「事件」もあった。

 この2つの出来事で考えさせられたのは、新しいテクノロジーや試みのあとには、必ず何らかのルールが必要になるのだなぁということだ。ルールというとすぐに「規制」や「自由への侵害」を連想して嫌悪感を示したり、必要以上に危機感をあおったりする人が多くて困るのだが、仮にルールという言葉がイヤでも、我々は秩序なき廃墟に暮らしているわけではない。少なくともまずはみんなで問題点を共有して、なんらかの秩序を構築することが必要だという認識には、共感してもらえるものと信じたい。

 ITはさまざな面で情報革命をもたらしたが、そのもっとも大きな意義は、誰でも広汎に情報を発信できることにある。ほんの10年前までは、いかに自分の「ホームページ」を見てもらうかが最大の課題だった。これはまだ情報の収集が個人の努力のみで行なわれている段階で、サーチエンジン自身がポータルとなって、個人と個人を結びつけていた状態である。

 しかし近年は、サーチエンジンは単なるツールであり、情報が集まる場所は別のポータルになった。例えば誰かが変なことを主張するブログを偶然発見し、それを2ちゃんねるに書き込む。それを見た人たちが大挙して押しかけて騒ぎになり、それを別のポータルが取り上げ、さらに人が集まるという連鎖が起こっている。

 現在は、情報発信者が想定もしていない事態に発展するケースが増えている。例え掲載を取り下げても、解決にならない。情報はネットに投下したとたん、アンコントローラブルになる。

ネットのカメラは「報道」と同じ土俵に立てるか

 まず1点目として、ネットによる映像発信は、どこまで許されるかということから考えてみたい。これまで映像という情報を広くばらまくためには、放送のような大がかりなシステムが必要であった。しかし今は、Webカメラの付いたパソコンがあれば、誰でも行なえる。ネットの登場で、映像頒布能力は、その規模や労力に比例しなくなった。

 そこで問題になるのが、「報道の自由」をどう考えるかである。元々報道の自由とは、「例え利害関係者に都合の悪い情報であろうと、真実を広く知らせる権利を担保する」ことにある。権利は義務と表裏一体であるから、これは「利害関係者に都合の悪い情報であろうと、真実を広く知らせる義務を負う」と言い換えることもできると、筆者は考えている。

 ここで重要なのは、本来守られるべき自由とは、義務と権利の束であるという点だ。情報に人に広く知らしめること、すなわち報道は、この権利と義務によって常にスタンスが正常化される。最近はマスメディアでも、この義務を果たさないところが出てきているが、それはもう報道機関として正しく機能していないと判断されるリスクを負うことで、広告の減少といった制裁が社会から加えられる。

 いやもっと言うならば、報道のスタンスは民衆の監視によって常時その目的に合致するものか、問われ続けるものでなければならない。これはネット上でも、出版社・新聞社によるニュースサイトも、報道機関として同じリスクを負っている。

 では個人による映像発信は、「報道」の枠に入れることができるだろうか。これはおそらく無理だろう。つまりそこには多くの人に見せる「技術的方法」が存在するだけで、報道特有の義務を負う意識がないからである。

 米国ではブログが新しい報道メディアとして確立するに至ったが、それは実名や顔出しなどで信頼を勝ち取り、批判されるリスクを負っているから成立する話である。日本でブログが報道の役目を果たさないのは、その多くが情報発信に対してのリスクを負うことを匿名によって避けているからであり、批判もされない代わりに信用もされないという、宙ぶらりんな状態になっている。

 つまりネットでリスクを負わずに情報を出す場合、「報道の自由」は成立しない。むしろそれは、「表現の自由」の問題と考えるべきである。しかし表現の自由もまた、創作する権利と、他者の人権を侵害しないという義務の束である。

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