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自分の意志とコピペの間にそびえ立つ壁小寺信良の現象試考(1/3 ページ)

» 2008年08月18日 08時30分 公開
[小寺信良,ITmedia]

 何か遠くの方から「いわゆるコピペ問題についてどう考えるか」というお題を貰ったような気がするので、考えてみることにする。そもそもコピペというのが問題であるという事になったのは、大学生のリポートにコピペが増えているということが発覚した、2005年あたりからだったように思う。

 学校のリポートというのは、本人が理解しているかどうかをアピールするためのものだから、理解の部分をすっ飛ばしてどこかから拝借したもので体裁だけ整えるというのは、サボリやズルと言われても仕方がないことだろう。そもそも学校側が学生にリポートを出させるのは、世の中こうやって自己学習して行くもの、という滑走路を走らせるためのものなわけだから、自分で走らないヤツがしかられるのは、まあ仕方がないことである。

 しかし、このコピペズルが可能という方法が成立したきっかけは、やはりネットの検索エンジンの力と、多くの文書がコンピュータによって作られるという背景があってのことだ。何かを調べる労力というものが、インターネットと検索エンジンによって飛躍的に効率化されたということは、人類にとってはプラスのはずである。

 もともと、人は何かのテーマについて考えるとき、参考資料なしには考えが深まらない。それに対するさまざまな資料や意見に目を通し、その中で自分の論を組み立てて行くものだからである。これは著作物全般にも言えることで、それが人が作ったものである以上、下地には必ず影響を及ぼした何かが存在する。

 成果物がオリジナルかどうかというのは、主に下地にしたものの消化具合に依存する。例えばコンテンツの場合、数多くの作品が下地になって1つの作品が構成されたならば、出来上がったものは特定のどれか1つに酷似することはない。多くの著作物がオリジナルとして世に出ることができるのは、このプロセスを通っているからであり、オリジナル作品が量産できるクリエイターほど、沢山の下地にできる作品を消化している。いわゆる「引き出しが多い」人であるわけだ。

 作品が盗作であるとか騒がれるのは、下地になっている作品が少なすぎて、ほとんど1つしか想定できないという場合や、下地の作品の主要部分をそのまま消化せずに取り込んでいるからというのが原因であると考えられる。

表現と借用

 コピペ問題を語るとき、それが著作権法的にどうなのかというところがよく論点になる。それは1つの切り口ではあるが、本質ではない。例えば世の中には、最初から二次利用されることが前提で作られている、いわゆる「素材集」というものが存在する。著作権フリーの素材集をまるまる使うことは盗用ではなく、法的にはクリアだが、それがコンテンツの場合は「成果物として許されるか」という根源的な問題がある。

 映像の世界にも、素材集というものが存在する。有名なのものとしてはArtBeatsDigital Juiceなどがあるが、例えばこういう映像を下に敷いて、上にテンプレートから適当に選んだタイトルを載っけるだけで、なんとなくオープニングタイトルになる。

 釈然とはしないが、費用対効果を考えたら、ものすごく効率が良いのは事実だ。テーマに合うものを1から作るのではなく、沢山の候補の中から選ぶというのも、実は1つの才能であると認めざるを得ない。

 しかし昔の編集者なら、まずこういうことはしない。編集というのは素材がないと何もできないから、いろんな素材があることは歓迎だが、ただ選ぶだけということに対して大きな抵抗を感じるのである。従って我々のような古い世代の編集者がこれらの素材を使う場合、原型を留めないぐらいに手を加えて元ネタが見破られないようにするのが普通である。しかし最近はテレビの番組の中でも、コーナータイトルにArtBeatsの素材がそのまんま出てきたりして、げんなりすることも多くなった。

 この問題は、3DCGの初期にもあった。ゼロからモデリングするのは時間がないので、ソフトに付属しているサンプルのモデルデータらを組み合わせてシーンを構成することは、良くあった。だがこれは、「なんでここにこんなものがw」という不条理感や頭の壊れッぷりが逆に「危なおかしい」というビジュアルを作り出した。その象徴的なものが15年ほど前にブームになった、「ウゴウゴルーガ」である。

 つまり借用やコラージュといった手法は、その分野の初期には手抜きと非難される瞬間があるものの、最終的には新しい価値を生み出したとして容認されてきた経緯を持つ。

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