危機感を募らせるインテル書籍「モバイル・コンピューティング」第一章(4)

» 2010年03月31日 00時10分 公開
[ITmedia]
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この記事について

 この記事は、PHP研究所が発行する書籍「モバイル・コンピューティング」(著者:小林雅一)の第1章を、出版社の許可を得て転載したものです。


危機感を募らせるインテル

 それはインテルの変身戦略に最もよく現われている。同社はかつてマイクロソフトと共にパソコン全盛期を生み出し、長年にわたってIT業界を牛耳ってきた巨大チップ・メーカーだ(チップとは「CPUを始めとした、各種情報処理を行う集積回路」全般を指す)。IT業界の主たる関心がモバイル・コンピューティングへとシフトしていることに、インテルは危機感を募らせている。ここ数年、世界市場におけるパソコンの売上は低迷している。このため、パソコンに搭載するチップを主力商品としてきたインテルは一時、利益が大幅に落ち込み、2008年から2009年にかけて株価も急落してしまった。2009年10月にマイクロソフトが投入した「Windows 7」により、パソコンの売上は一時的に持ち直したが、長期的な停滞傾向に変わりはない。

 これに対し、スマートフォンやネットブックのようなモバイル・コンピュータは、不況下でも急速に市場を拡大している。インテルにとって気になるのは、パソコンに代わる次世代の主力商品となるモバイル端末の多くが、インテル製のチップではなく、「ARM(Advanced RISC Machine)」と呼ばれる新しいアーキテクチャ(設計方式)のチップを採用していることだ。

 ARMはその優れた省電力性から最近、スマートフォンや携帯メディア・プレイヤー、あるいは携帯ゲーム機など多様なモバイル端末に使われている(屋外で使われることの多いモバイル端末は、バッテリーの電力を節約することが最優先事項である)。たとえばアップルの「iPhone」や「iPod」、RIMの「BlackBerry」、アマゾンの「Kindle」、あるいは任天堂の「ニンテンドーDS」や「ゲームボーイアドバンス」など、人気商品にARMチップが搭載されている。また次世代モバイル端末用のチップとして期待を集める、米QUALCOMMの「Snapdragon」もARMアーキテクチャに従って設計されている。

 これに対しインテルは、各種モバイル端末用の省電力CPU「アトム(Atom)」を製品ラインナップに用意しているのだが、これと比べるとARMの方がより省電力で価格も安いので、多くのモバイル端末メーカーはARMチップを採用しているのだ。

 元々、ARMは英エイコーン・コンピュータが1983年に開発した技術だが、今では技術使用料(ライセンス料)を払えば、どんな企業でもARM仕様のチップを製造できる。つまりARM事業はライセンス・ビジネスである。現在ARMアーキテクチャの知的財産権を保有し、そのライセンス管理を行っているのは、かつてエイコーンから分社化したARMホールディングスという英国企業だ。

 インテル自身も1997年にDEC(Digital Equipment Corp.)というコンピュータ・メーカーの一部門を買収した際に、ARMライセンスを取得している。ARMはその当時から、IT業界関係者の間で評判になるほど卓越した技術だった。ところが90年代後半はモバイル・コンピューティング市場が今ほど大きくなく、インテルはARM製品から、ほとんど利益をあげることができなかった。ほどなくインテルは自社のARM部門を他社に売却してしまった。その後、IT製品市場におけるモバイル端末の占める比率が高まるにつれ、ARMはインテルの強力なライバルへと成長したのである。

モバイルの先に見えるユビキタス

 このARMに対抗すべく、インテルは現在、2種類のモバイル端末向けチップを開発中だ。一つは「Moorestown」、もう一つは「Medfield」というコードネームで呼ばれている(オンライン版フォーチュン記事「Intel,s secret plan」、2009年5月13日付けより)。

 このうち、まずMoorestownは「コンピュータに必要な一連の部品を1個のチップ上に搭載した製品(SoC:System on a Chip)」である。具体的にはCPU(中央処理装置)、グラフィックス描画プロセッサー、メモリ制御装置などをまとめてワン・チップ化し、全体の消費電力を極力抑えた。この画期的なチップは、現在、インテルがライバルのARMに足元を脅かされている商品、つまりスマートフォンや携帯メディア・プレイヤー、あるいは携帯ゲーム機のようなモバイル端末市場を奪取するために開発され、2010年に製品が出荷される予定だ。

 インテルはMoorestownの市場を創出するために、自ら新種のモバイル・コンピュータの開発にも乗り出している。同じフォーチュン誌の記事によれば、テキサス州オースティンにあるインテルの技術研究所には、今までに見たこともないような新型モバイル端末の試作機が幾つも並んでいるという。その中には、「一見iPhoneに似ているが、それよりやや大きめの端末」や「細長い筐体にすべすべしたフラットパネルを搭載した、テレビ用リモコンに似た端末」、あるいは「5インチ・スクリーンを搭載し、やや太めの筐体で、ボタンが全く存在しない端末」などが含まれる。これらは、いずれもMoorestownを搭載するモバイル・コンピュータとして考案されたという。

 このMoorestownの後を追って開発が進められているMedfieldについては、フォーチュン誌の記事も内部の仕組みなど詳しいことを明らかにしていない。しかし、それが目指しているのは、「インテルが長らく切望して、なかなか叶えることのできなかった家電市場への参入」であるという。つまりMedfieldは、様々な家電製品に搭載されるべく開発されているチップなのだ。なぜインテルが家電市場へと進出するのか。その意図を同社の最高経営責任者(CEO)、ポール・オテリーニ(Paul Otellini)氏は次のように語っている。

 「インテルが家電市場を征服できると信じる理由は、家電製品がどんどんコンピュータに近づいているからだ。そしてコンピュータは我々インテルが得意としてきた分野だ。(メッドフィールドから始まる)次世代のインテル・チップは、携帯電話やMP3プレイヤーから心拍モニターや(冷蔵庫や掃除機のような)ハウスホールド・アプライアンスまで、あらゆる家電製品に組み込まれるだろう。そして、その全てがインターネット機能を備えることになるだろう」(オンライン版フォーチュン記事「Intel,s secret plan」より引用)

 これは、まさしくマーク・ワイザー博士が提唱した「ユビキタス・コンピューティング」の世界である。1988年に一人のコンピュータ科学者が描いたビジョンは、その20年後に世界IT産業の行方を左右する巨大メーカーの経営戦略にまで具体化された。その実現、つまり私たちがユビキタス社会の到来を実感できる日は、かなり近くまで迫っている。

 しかしユビキタスよりも前にインテルは、まさに今拓かれつつある「モバイル・コンピューティング市場」を制覇しなければならない。いや、むしろ「奪還」という表現の方が適切だろう。既にライバルのARMは、スマートフォンや携帯メディア・プレイヤー、さらには携帯ゲーム機まで、幅広いモバイル端末に採用されている。この分野におけるARM連合(ARMアーキテクチャに従う製品群)のシェアは、今や全体の70%を超える。逆にインテルはモバイル分野で弱く、特にスマートフォン市場における同社のシェアは1%程度に過ぎない。これからのIT産業で最大の成長が見込まれる分野で、かつての王者インテルは気がついてみれば、領土の大半をARMに奪われていたのだ。

 もちろんインテルほどの資力と技術力を持つ企業なら、ライバルに先取りされたモバイル市場を奪還し、それをさらに拡大することも可能だろう。しかし、そのためには、インテルの企業文化を根本から改革しなければならない。インテルはこれまで総力をあげて「値段は高くても、ひたすら速いチップ」の開発に取り組んできたが、これからは「安くて省電力で、それでも速いチップ」へと、研究開発の舵を切らねばならない。これからのモバイル・コンピューティングに必要とされるのは、まさにそのようなチップであるからだ。

 またチップの値段を下げるということは、必然的に、より大量の販売を強いられることを意味する。つまりマーケティングや販売体制も、根本的に改革する必要がある。しかし、全世界に8万人以上の社員を抱える巨大企業インテルが、そう易々と方向転換できるとは思えない。仮に今後数年でインテルが「モバイル向けチップ・メーカー」に変身できたとしても、そこまでには相当イバラの道が予想される。

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