「携帯電話」から「ケータイ」へ 電話をコンピュータに変えたドコモNTTドコモの20年(前編:1992〜2002)(1/2 ページ)

2012年7月、NTTドコモは創業から20周年を迎えた。自動車電話や無線呼出サービス、携帯電話などをNTTから譲受して始まった移動通信事業だが、この20年で同社が提供する機器とサービスは大きな変貌を遂げた。まずは1992年〜2002年までの前半10年をITmedia Mobile前編集長の斎藤健二と現編集長の園部修が振り返る。

» 2012年07月24日 10時00分 公開
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 2012年7月1日に、NTTドコモがサービスを開始して満20年を迎えた。1992年7月1日にNTT移動通信網として、NTTからケータイや自動車電話、ポケベル(無線呼出)などの営業権を譲り受け、以来同社は日本のモバイルシーンをけん引してきた。サービス開始当初は、まだケータイというと必要に迫られた少数の人だけが使えるものだったが、今やケータイは日本人の生活に密着するツールだ。ケータイやスマートフォンのない生活を想像できるだろうか。

 いつでもどこでも電話やメールで連絡を取り合うことができ、必要な情報はその場にいながら瞬時に入手できるのは、今では当たり前のことだが、20年前はまだ一部の、本当に電話を必要とする人だけが機器をレンタルして「通話」をするために使うものだった。多くの人達に普及するまでには、さまざまな技術的な革新と制度の変更の積み重ねがあった。そしてその中心には、常にドコモの存在があった。

 インターネット上のニュースサイトとして1997年9月1日に創刊したITmedia(当時は「ZDNet Japan」)では、携帯電話市場が急成長した1990年代後半に、その可能性に未来を感じた編集担当者が専門メディアを立ち上げ、業界の先端動向を追いかけてきた。当初は「ITmedia News」で通信業界の話題を取り扱っていたが、ドコモの503iシリーズ発表で携帯電話市場が大きく変貌することを予見し、2000年末に1か月ほどの準備期間で新チャンネル「ITmedia Mobile」(現ITmedia +D Mobile)を立ち上げた。そして2001年1月の503iシリーズ発表とともに、幸先の良いスタートを切ったという歴史がある。

 今回は、ドコモが20周年を迎えたタイミングに合わせ、同社の歴史を振り返りながら、ITmedia +D Mobileの初代編集長の斎藤健二と、2代目編集長の園部修が、それぞれの歩みとドコモの歩みを重ね合わせつつ、今のドコモの先進性につながる出来事を語る。

PhotoPhoto ITmedia Mobile前編集長(現スマートメディア事業推進部長)の斎藤健二(左)とITmedia Mobile編集長の園部修

1992年の携帯電話事情と学生時代の歴代編集長

 ドコモ(当時はNTT移動通信網)が創業した1992年には、世間にはまだアナログ方式の携帯電話しかなかった。前年の91年に、“持ち歩ける電話”として「ムーバ」が登場したばかりの頃だ。同い年の斎藤と園部は大学に入ったばかりで、当時はまだ料金も高かったため、携帯電話そのものとは縁のない生活を送っていた。ちなみに92年頃、携帯電話の契約をするには保証金10万円と新規加入料4万5800円が必要で、さらに回線使用料と端末レンタル料が月に1万6000円、そして通話料が別途かかった。とても学生が維持できるような金額ではなかったのだ。

 今やXi対応の最新モデルでも、安価に購入できることを考えると隔世の感がある。ドコモ同士の国内通話が24時間定額となる「Xiトーク24」などを利用すればさらにおトクだ。「この頃にケータイを持っていれば、もっと人生は変わっていたかもしれないですね(笑)」(園部)

 残念ながら当時は「ポケベル」の愛称で知られる無線呼出サービスの方が主流だった。その頃は、ポケベルが女子高生などの間でコミュニケーションツールとして流行していたのを横目で見ていた記憶が園部にはある。斎藤も、学生時代は、機種名は忘れてしまったとのことだが、ポケベルを利用していたという。

 ドコモの20周年記念サイト「ドコモthanksキャンペーン」にある「DOCOMO 20 YEARS COLLECTION」で、当時の機種やCMが公開されているが、ポケベルのCMも一緒に公開されていることからもそんな時代が垣間見られる。対談の前に、このサイトを斎藤と2人で見てみたが、かつて自分たちが利用していた機種を挙げながら昔話に花が咲いた。

 「ケータイは、そのときの思い出と深く結び付いているので、機種を見るとそれとひも付いた出来事や人物が想起されます。忘れていたことをいろいろ思い出したり、懐かしい記憶がよみがえったりしました」(園部)

 「ドコモのケータイは、シリーズの更新が年度に1度のペースだったので、『1999年』と言われるより、例えば『501iシリーズの年』と言われた方がそのときの記憶が鮮明に思い出せます。サイトを見ているとつい時間を忘れてしまいそうです」(斎藤)

 さて、93年にドコモがデジタル方式の携帯電話サービスを開始し、「デジタル・ムーバ」が発売された。このときもまだ保証金が必要で、端末はレンタルだった。もちろん携帯電話を持つ大学生は、周りにはほとんどいなかった。授業の後はサークルの部室に集まり、その後みんなで飲みに行ったりして遊んでいたような時代だ。一部ポケベルを持っている人はいて、どこで飲んでいるのか公衆電話からメッセージを送って連絡を取り合ったりしたが、それも少数派だった。

 「その頃は、待ち合わせ場所や時間などはかなりしっかり事前に決めていましたよね。学生の頃は遅れることを伝える手段がなかったので、遅刻するなんてとんでもないと思っていましたし、時間はかなり気にして行動する方でした。ケータイの普及でかなりいろいろなことが変わりましたけど、個人的には簡単に連絡が取れるようになって、人を無駄に待たせたりしなくてよくなったのがありがたいです(笑)」(園部)

 だがこうした状況は94年に大きく変わる。この年はドコモが端末の買い上げ制度を開始し、ユーザーはレンタルではなく、端末を自分で購入できるようになった。これに合わせ、買い上げ専用モデル「ムーバII」が発売された。新規契約料や基本使用料も大幅に安くなり、徐々に携帯電話が身近になっていった。さすがに当時大学生だった斎藤や園部はまだ携帯電話は持っていなかったが、今後購入してみたい機器の1つになっていた。

 この年から3年ほどは、携帯電話の契約数が1年ごとに倍増していた。日本国内での携帯電話契約数は、94年3月におよそ210万契約ほどだったが、95年3月に430万超、96年3月には1020万超になり、97年3月には2080万超と、まさに倍々のペースで増えていった。

若者はPHS、社会人は携帯電話という時代

 斎藤が初めて携帯電話を購入したのは96年。社会人になってからだ。購入した理由は「社会人になったから」。そして、世の中の雰囲気として「なんとなく、買わなくちゃいけないムードがあった」と振り返る。「もともとそういう流行に乗るのは好きだったんです」(斎藤)

 斎藤が最初に契約したキャリアはドコモではなかったそうだが、その後も1年に1回程度機種変更をしていたという。「当時は、女子高生や若い子が使う端末がポケベルからPHSに移行しつつある時期でしたよね。で、社会人は携帯電話という感じでした」(斎藤)

 96年と言えば、広末涼子がタコ型のすべり台から滑り降りて走り去るポケベルのCM「広末、登場。」編を記憶している読者も多いだろう。この頃はまだポケベルが契約数を伸ばしていた時期。彼女が誕生日にポケベルを買ってもらうというストーリーで、ターゲット層がよく分かる。ちなみに携帯電話は織田裕二がCMキャラクターを務めていて、バリバリ仕事をこなすサラリーマンのようなイメージで描かれていた。これも当時の携帯電話のイメージを色濃く反映している。

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1990年代前半、高校生や大学生はポケベルを利用している人が多かった。広末涼子のこのCMを覚えている人は多いだろう
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携帯電話を使ってバリバリ仕事をこなすのは社会人のイメージが強かった。

Photo 園部が初めて購入した携帯電話は「ムーバ P151 HYPER」

 園部は96年に大学を卒業して社会人生活を1年送り、2年目に入った97年に初めてドコモの携帯電話を購入した。当時よく遊んでいた友人達から、「エリアが広くて、一番よくつながるのはドコモだ」と強く推されてドコモを選んだ。その頃はパソコン通信の映画フォーラムで開催されていた「オフ会」にちょくちょく参加していたため、待ち合わせや合流の際に便利だから、というのが購入理由だった。端末はシティフォンの「ムーバ P151 HYPER」だ。ケータイショップなどがまだそれほど多くない時代だったので、端末価格が比較的安く、待ち時間が短い(手続きの時間があまりかからない)店舗をインターネットで探し、電話で在庫を確認して渋谷に買いに行ったのを今でも覚えている。初めて携帯電話を持ち、その利便性に触れたとき、大人の階段を1つ上ったような気がしたものだ。

 「雑誌の編集をやっていて、基本的には自宅と編集部、それに時々発表会場に行くくらいで、関東圏から出ることはほとんどなかったのでシティフォンで十分、という判断でした。地方へ取材に行ったりする機会はあまりなかったですしね。主にプライベートで、友達と待ち合わせしたり、休みの日に連絡を取ったりするのに使っていました」(園部)

 シティフォンは、94年からサービスが始まっていた、1.5GHz帯を利用するサービス。800MHz帯で提供されていた、全国で使えるムーバとは異なり、エリアが関東・東海・関西の一部地域に限られていたが、その分料金は割安だった(ちなみに関西ではシティオと呼ばれていた)。

Photo 当時世界最小・最軽量を記録したことがニュースになった「ムーバ P207 HYPER」

 当時の携帯電話はまだ本当に持ち歩ける電話でしかなく、機能も電話帳と留守録程度だったので、端末は「薄さ」と「軽さ」をひたすら追求していた。年を追うごとに端末は小さくなっていき、98年11月に発売された「ムーバ P207 HYPER」が、世界最小・最軽量の約68cc、約68グラムを実現したというニュースは、斎藤が鮮明に覚えていた。

 斎藤もその頃、PC雑誌の編集をしていたが、当時から携帯電話の先進性に着目し、特集記事を作ったりしていたという。「当時の編集長には、なに? 携帯電話? なんで? なんて言われながら企画を出したりしていましたが、その頃から携帯電話に関心を持ってずっと見てきました」(斎藤)

 一方園部は、PC誌で携帯電話を取り扱うことまでは考えていなかったが、PDAなど小さなガジェットが好きだったこともあり、徐々に携帯電話に興味を持ち始めていた。98年には、小型のPCにデータ通信カードを組み合わせる「モバイラー」と呼ばれる人達が現れた。いつでもどこでもインターネットに接続できる環境を構築するようになったのは画期的だった。ちなみに園部は、その頃ISDN公衆電話にモジュラーケーブルをつないでパソコン通信をしたりしていたので、携帯電話を通信に使えると知ったときはとにかく試してみたくなった。

 「ネットにつながるPCを、どこにでも持ち歩けるようになった、という記憶は強く印象に残っていますね。当時はPHSを契約しようか、ドコモの携帯電話にデータ通信カードを接続しようか、けっこうまじめに悩んで検討しました。結局ドコモのPCカードアダプターを購入して、携帯電話をつないで9600bpsとかで通信していたのを覚えています」(園部)

Photo 全国で使える携帯電話が必要になり「SO206」に機種変更

 98年になると、園部は北海道旅行を契機に、携帯電話を全国で使える「SO206」に買い替えた。画面の解像度が上がり、名前がカタカナだけでなく漢字やひらがなで表示できるようになったことに感動を覚え、それまでカタカナだったアドレス帳の名前を1つ1つ漢字に変換した。また、北海道での滞在中でも特に不自由なく利用でき、エリアの広さと安心感を感じたのもこの頃だ。「いまだに地方へ行ったときなどには、ドコモのネットワークの強さを実感します。音声もデータ通信も、『ドコモならつながる』という信頼感はこの頃にできたような気がします」(園部)

 この年は、10円メールやSMSを簡単に作成できる携帯電話用キーボード「ポケットボード」も発売され、人気を博していた。携帯電話が「電話」だけでなくデータ通信の手段としても認知され、徐々に電話ではない「ケータイ」に変わっていった時期だ。園部はポケットボードは購入しなかったが、キーボードでメールが打てる環境にはあこがれた。

 そして99年1月、携帯電話がケータイへと変わった決定的な出来事である、「iモード」が発表された。PCでインターネットを利用していた斎藤や園部の人生が大きく変わる契機でもあった。

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※掲載の内容は2012年7月24日現在の情報です。

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