松本明彦氏の現場デジタル写真時代の表現者 #005(1/2 ページ)

» 2004年02月10日 11時14分 公開
[島津篤志(電塾会友),ITmedia]

カーデザイナーから転身した写真家

 今回は古くからお付き合いいただいている写真家の松本明彦氏をたずねた。アカデミーヒルズ六本木ライブラリーで作業をしているというので押し掛けたのである。松本氏のように六本木ライブラリーのオフィスメンバーになるには、審査が厳しく面接もあるという……。

 「本来であれば私の年収ではダメだったかもしれません(笑)。でもたまたま審査員の方のひとりが私の活動内容を知っていて、アーティストとして認知してくれたんですね。応募したときはまだ0次会員で、ヒルズ側はアーティストの入居を求めていたんだと思います。ラッキーでした(笑)」

アカデミーヒルズ六本木ライブラリーは森タワーの49F。窓の外には東京タワーを中心にした都心の風景が広がっている
六本木という土地柄を反映してか英字新聞が……。洋書の蔵書も多い。会員制のライブラリーというのは、じつに落ち着いた空間だった

 松本氏は元デザイナーである。デザイナーから写真の道に転向したという人を私は少なからず知っており、氏もそのうちのひとりだ。しかし松本氏の経歴は一風変わっていて、それはカーデザイナーだったことである。

 松本氏は美術系の大学を出た後、カーデザイナーになるという夢を実現した。しかしその華のあるポジションを、わずか4〜5年で捨て去ってしまう。

 「カーデザイナーといっても自動車メーカーの社員であることに違いはありません。当たり前のことなんですがアーティストじゃないわけです。いいデザインを描いてさえいれば評価され役割を全うできる、というものでもないんですね」

 「組織の一員ですから、服装の規定にはじまって会社内部のさまざまなしきたりに従わなくてはならない。たとえば運動会などの社内イベントがあれば、意志に関係なく参加を強いられるし、乗るクルマは他社メーカーなどご法度なわけです。私は他のメーカーのクルマに乗っていたんですけどね(笑)」

 「そうすると会社の敷地内に停められませんから、マイカー通勤だった私は民間の駐車場を会社の近所に借りていたんです。そしたらそこに内部調査が入った!」

 そんなこんなで、面倒くさくなったと……(笑)?

 「そうですね(笑)。会社に入ることではなく、いい作品を創ること自体が目的でしたから、退社することに大きなためらいはありませんでした。しかし何かを表現する仕事は続けていきたい。そこで、個人でやれることって何だろう? と考えたときに、自分のもう一つの表現手段として大切にしていた写真を本気でやってみようという思いが浮かび上がった。それで『コマーシャルフォト』などの写真系の雑誌を買いあさり、写真スクールに通い出し、講師の先生からご紹介をいただいてスタジオカメラマンとして修業を始めました」

 半年間の修業を積んだところで、松本氏は交通事故に遭う。幸い大きなケガはなかったが、マイカーは全損となり手元に150万円の保険金が下りた。

 「お金の使い道について、ぼくの選択肢は2つでした。1つは写真の機材を揃えること。そしてもう1つは、写真を撮りにNYに旅立つこと」

 思案の末、松本氏は後者を選んだ。スタジオの仲間が応援してくれたこともうれしかったが、このとき氏が励まされたのは身近にいた目上の大人たちによる人情である。

 「何か目的意識を持った若者が真剣に行動を起こそうとしているときって、周りの大人たちが手を貸してくれるものなんですね。NYに知人のアテなど無かった私ですが、現地へ発つ前にお世話になった方々へ挨拶回りをしたんです。そのとき、『この人を訪ねてみなさい』と頼りになる人を紹介してくださる方がいました。フィルムメーカーの社員さんで、期限切れ間近のフィルムを『これもう商品価値はない品だけど、十分使えるからどうぞ』と大量にくださる方もいました。いろんな人の力に支えられてましたね」

 それで、NYではどんな写真を?

 「人、風景、モノ、ありとあらゆるものを被写体にしてファインダーに収めました。当時の写真は私のサイトで見ていただけます。約1年NYで暮らして、日本に帰ってきました」

 帰ってきて、すぐフリーランスに?

 「最初はまるで食えない日々でしたが、やっぱり組織はもういやと(笑)。NYで撮りためた作品で個展を開いたり、いろいろ営業したりしましたが現実は厳しかったですね。ところが貧乏のどん底にいたある日、予備校時代の友人が私に声をかけてきました。『ヒマなら、一緒に作品を作らないか?』と」

 CGクリエーターの川口吾妻さんですね?

 「そうです。彼はCGを制作する活動をすでに始めており、イラストレーションなどで生計を立てていました。彼いわく、写真とCGを融合したコラボレーションがもしかするとできそうだ、と言うのです。しかし'88年当時は、世界的に見ても個人がデジタルフォトのアート作品を制作するケースは見られなかった時代。写真の加工を可能にする機械(グラフィック系のスーパーコンピュータ)は数億円しましたし、せいぜい印刷工程で単純な画像合成や色のレタッチをする程度でした」

 当然MacやPhotoshopは無かった時代の話である。“不可能”と思い誰もやってみなかった当時、松本&川口の若きデジタルアーティスト・コンビはDOS-VマシンとSuper Tableauを使って、不可能を可能にした。Super Tableauは80年代に登場した日本初のコンピュータグラフィックソフトで、DOS上のフルカラーペイントシステムである。

 「写真の持つリアリティとCGの美しさをひとつの作品で表現しよう、と始めました。HDが40数Mバイトという制作環境でしたから、画像は分割して作業する必要がありました。FD8〜9枚に分けておき、分割したパーツごとに作業をして更新&保存するのです。撮影はもちろん、銀塩でした」

写真とCGを融合した作品の第一人者

 その作品が世に出たいきさつは?

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