ファースト・プレゼント〜ペンの物語 <3>小説(1/2 ページ)

「ええっ? 上司? 何のこと、上司って!」思いもかけない言葉に思わず発してしまった自分の大声に我に返り、うわずった声を抑えるようにして「と、とにかく立ち話じゃなんだから」と彼女を促してマンションを出て、近所のドーナツショップに向かった。その道すがら、上司になる方、とはどういう意味なのか説明してくれた。

» 2004年03月04日 01時05分 公開
[チバヒデトシ,ITmedia]

 ドアの外に立っている彼女をよく見ると黒いロングヘアではなかった。確かに顔も昨晩あった彼女ではあったが、どことなく印象が違っていた。なんていうか、昨晩はどこか浮いているというか、この世に存在していないような、そんな感じだったが、いま目の前にいる彼女は間違いなく存在している女性だ。それも美人の。でも、やっぱりどこかで見たような感じは変わらなかった。彼女は名乗りもせずにいきなり切り出した。

 「こんにちわ、田嶋さん。会社の方に連絡させていただいたら、今日はもう帰宅されたということでしたので、直接、おうかがいしました。いきなりどうかとは思ったのですが、田嶋さん、なかなかつかまらないし」

写真:チバヒデトシ、モデル:Chiro

 面食らっている僕にかまわず、彼女はこう続けた。

 「人事部からお話はあったとは思いますが、あらめてごあいさつした方がいいかなと思いまして。でも、昨夜は田嶋さんさっさとホテルに戻ってしまうし。朝、ワインショップの方にいらっしゃるかな、と思ってお待ちしていたんですけど。これ、お店にお忘れになっていた手帳です」といって、彼女は使い古した愛用の手帳を差し出した。

 「おかしいな。一体いつ忘れたんたんだろう。とにかくありがとうございます。ところであなたは……」と言うのをさえぎるようにして、彼女は「上司になる方にこんな言い方は失礼かもしれませんが、毎朝メール・チェックはされた方がよろしいのではないかと思います。店長さん、何度か携帯電話とPCのアドレスにメールしたんだそうですよ」。

 「ええっ? 上司? 何のこと、上司って!」思いもかけない言葉に思わず発してしまった自分の大声に我に返り、うわずった声を抑えるようにして「と、とにかく立ち話じゃなんだから」と彼女を促してマンションを出て、近所のドーナツショップに向かった。その道すがら、上司になる方、とはどういう意味なのか説明してくれた。経緯はこうだ。

 外資系の関連会社、Swallow Communications Inc.がはじめたソフトウェア開発事業の国内での展開を我が社、つばめ商事でもソフトウェア事業部を開設して、対応しようという話が夏の終わりぐらいからあった。これは僕も一社員として事業の概要や事業への参加希望者を募っていた事ぐらいは知っていた。もっとも僕のいる酒販事業部にはまったく関係のない、自分には縁のない話だと思っていたわけだ。

 ところが、僕がそのソフトウェア事業部に異動になる、ということなのだ。そして、彼女はソフトウェア事業部に年明け早々に配属になるという。彼女はSwallow Communications Inc.の本社で採用になり、国内展開の支援担当として、僕の部下になるというのだ。

 夕方の混み始めたドーナツショップは話をするにはちょっとにぎやか過ぎた。お客のほとんどが女子高生とOL、買い物帰りの子供連れの主婦もいる。おしゃべりとタバコの煙、ドーナツの甘い香りで充満した店内。こういうのは苦手だ。それに美人の彼女に視線が集まっているような気もした。

 大きめのマグのぬるくなってしまったコーヒーを飲み干して、僕はこう言った。

 「でも、そんな話は初めて聞いたし、辞令どころか打診も受けていないんですよ。大体、僕のようなのがなんでまたソフトウェアだなんて。いままでお酒の営業しかやったことのない僕にソフトウェアの営業なんてできるわけがないよ」

 「違います。田嶋さんが担当するのは開発。営業じゃありません。今度のソフトウェアを開発している開発リーダーは、日本語版には田嶋さんの力が不可欠だと言ってました」と彼女はオールドファッションをコーヒーにダンクしながら言った。

 「開発! それならなおさらできるわけないよ。ホントむちゃくちゃだよ」

 彼女が知っているのはそこまでだった。なぜ僕が不可欠なのかは彼女も知らない、ということだった。とにかくそのことについては、後日、会社で確認することにした。

 「それはそうとして、なぜ、君は僕の部屋や出張先にまで会いに来たの? 大体、どうやって場所がわかったの?」

 「どうしても会わなければならない理由があったんです。私が事業部内のソフトウェア開発室でお手伝いするのは、海外にある開発部との連携を取ったり、日本語版の開発にかかる技術的なお手伝いをすることです。その部分については、私が責任を負う事になるのですが、田嶋さんのパソコンを使った情報収集力に心配な点があったんです。ある程度、パソコンができていなければ、仕事がスムーズに進みませんので。そこが心配だったんです。それで向こうでの仕事を切り上げて、早めに帰国したんです」

 内心、マズイ、と思いながらも強気で「失礼だな。別に僕はパソコンができないとか、そういう……」という僕の言葉を無視して、

 「まず、半月も前に出させて頂いた私のメールに返事がないこと。そして、さまざまな資料を目の前のパソコンで見ずに、いつも女子社員にプリントアウトをお願いして、紙にばかり頼っていること。営業社員に優先的に使用が許されたはずのPDAやノートパソコンを一切、使っていないことなど、担当者を選任する際のプロフィールにこんな調査事項があがっていました。職務上、拝見したわけですが、これではいけないと思ったわけです。それで実際に仕事に入る前に今回のプロジェクトに不可欠な“タブレットPC”を使いこなして頂こうと思い、一台、個人用にお送りし、私がインストラクションして差し上げようと考えたわけです」

 返す言葉もなかった。確かに僕は正真正銘のパソコン音痴だ。というかマウスとキーボードがだめなんだ。しかし、一本指でキーボードを操作するぐらいなら、手で書いた方がよっぽど早く記録することができる。ノートパソコンじゃなく、紙の資料を持ち歩くのも、現場でちょっとした商品を運んだり、ディスプレイを手伝ったりするには、なるべく身軽な方がいいからだ。ま、でもこんなのはいいわけに過ぎないが。

 「でも、そのためにわざわざ出張先やここまで?」

 「出張先はたまたま私の両親がリタイヤして住んでいる街だったので、ついでだったんです。ここは私の部屋が意外に近いので。ワインショップの場所も田嶋さんのお住まいも会社のサーバにデータがありましたので、すぐにわかりました。アクセス権も早めに取得していましたし」

 そういうことか。これで合点がいった。彼女はパソコンのエキスパートで、変なメールも段ボール箱に入ったパソコン(タブレットPCって言うのか)も、彼女の仕業だったわけだ。

 出し抜けに彼女は僕を見てこういった。

 「でも、本当はそれだけじゃないんです。田嶋さん、以前、サーフィンやってましたよね。プロフィールに『趣味:サーフィン』とあったのを見て、気がついたんです」

 彼女の言葉にギョッとした。目の前の彼女が黒髪のロングヘアに変わって見えた。そうだ。浜辺でよく会ったあの彼女だ。どこか懐かしく見覚えがある感じがしたのはそのためだった。

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