中国の金型産業の強さとその裏側(前編)山谷剛史の「アジアン・アイティー」(2/2 ページ)

» 2006年01月05日 11時00分 公開
[山谷剛史,ITmedia]
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アジア諸国の台頭とデフレと日本職人の関係

 平成になり、100円ショップに代表されるデフレの時代がやってくる。デフレの時代が始まるとともに、日本のメーカーは「そこそこのものが作れて」「価格もそこそこな」台湾の金型企業にこぞって発注するようになる。次いで中国で金型産業が発達し、そこでも「そこそこのもの」が「台湾金型企業より安い価格で」作れるようになると、日本企業はもちろん、台湾のメーカーですら、中国に金型を発注するようになった。

 このあたりは、PCパーツの生産拠点が移行していく状況と同じである。日本製のノートPCやデスクトップPCの筐体や周辺機器のケースは、従来、日本の金型産業が生産していたが、今はPCが世界的に普及して汎用的なデザインとなったため、言い換えれば誰でも作れるようになったので、日本での生産はほとんどない。またデジカメや携帯電話も多くが中国に移行した。

 日本の大手製造業が中国に発注するようになると、日本の町工場を中心とする金型産業にもデフレの波が押し寄せた。メーカーは金型のコストをどんどん引き下げ、受注額は以前の1割減からすぐに、4分の3、半額……と、どんどん安くなり、最後には作れば作るだけ赤字になる「原価割れの製品」を町工場に発注するようになった。

 そういった「異常な受注」が当たり前となった結果、町工場の多くは、中国へ移転するか、土地や金型製造で使う大型機械などを売却して廃業した。大田区を歩いてみると蒲田や大森、羽田の周辺に、平成生まれの大型マンションが立ち並ぶのを見ることができる。そこは町工場の跡地なのだ。

大田区元羽田のマンション。このいくつかは町工場の跡地に建つ

 現在残っている町工場は、大人数の金型職人を抱えるある程度規模のある企業か、特殊技術を持っている工場か、オーナーが「安くても好きだからやる」という意志で続けている工場である。ほかにも、若者の理系離れによって、金型産業は職人の高齢化、技術の空洞化といった問題も抱えつつある。町工場から金型職人がいなくなる可能性もでてきた。

 町工場産業を重視する東京都大田区と、町工場の中でも体力のある大規模企業は、地元の高専から学生を迎え入れ、彼らに仕事を経験させ、そして、金型産業が気に入った学生はそのまま入社できるという「官民一体の職人復活プロジェクト」を行っている。さらに、職人各人の得意分野によって仕事を振り分けるように、町工場同士の連携を強めた。

 「金型熱血集団JAM」(城南アグレッシブモールド)もそのひとつだ。

 その「金型熱血集団JAM」メンバーの一人に並木正夫氏がいる。彼が代表取締役社長である「並木金型」は、ほかの町工場と同様、様々な部品の金型を作ってきた。IT関連製品では、大手メーカーの携帯電話を約10年作りつづけたほか、別なメーカーの2.5インチHDDの「ガワ」も作っている。

 携帯電話に関しては、昔の大きな携帯電話から現在の大きさへとリサイズする過程では仕事はあったが、サイズが一定化し、加えて中国の金型産業が台頭してくると、コストダウンによる受注額が減少してきた。そのため、現在はこれらの金型製作から撤退している。ちなみに現在、携帯電話をやっている日本の金型企業はごく僅かである。

 次回は、この並木正夫氏にスポットを当てて、彼が分析する「中国の金型産業の強さとその裏側」について見ていくことにしたい。

並木金型は東京都大田区大森にある、業界では「大規模」ともいえる工場だ

並木金型の代表取締役社長の並木正夫氏。次回は彼が分析する「中国金型産業」について紹介する
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