それについて語るとき、まずは「壁」の話をしなければならない。
生まれてこの方、ずっとインドアです。
家にこもっているのが好きです。車でオートキャンプ場に出かけてバーベキューして、バーナーでお湯を沸かしてコーヒーを飲んで帰ってくる人の気持ちが分かりません。夏だからといって、海に行かなければならない義務などあるのでしょうか?
仕事はカメラマンです。
そうやって自己紹介すると、ときどき変な顔をされます。写真の仕事をしている人は、みんなアウトドアじゃなきゃ駄目なんでしょうか? 僕のようにスタジオで物撮りしているカメラマンだっているのです。1日中暗いスタジオの中にいます。日焼けする暇もありません。
趣味はPCの自作です。
PCショップにはよく行きます。パーツを選んでいること自体は楽しいのですが、ふと気付くと周囲に女性客が1人もいなかったりします。客層は、異様です。1つのことに集中している人にありがちな、まわりが見えない感じが漂っています。その中に自分も身を置いていることに悩んだりもしました。たまに「ヲタク」と呼ばれます。
マルチツールも好きです。
後は撮影時の実用の意味もありますが、マルチツールが好きでいくつかコレクションしています。僕は仕事帰りに毎日のようにアウトドアショップに通っていました。マルチツールはキャンプ用品売り場の中のガラスのショーケースに並べられています。ビクトリノックスをはじめとして、レザーマン、カーショウ、ガーバーなどそうそうたるメーカーのマルチツールは金属の工芸品のように美しく、ため息が出るほどです。
でも、この店内ではPCショップのように集中ができません。後ろから男女の会話が聞こえてくるからです。振り返ると、会社帰りのカップルが寝袋を選んでいました。日に焼けた肌に白い歯がまぶしい「ビーパル野郎」、つまりはアウトドア野郎が女性(おそらく同僚)にアドバイスをしているようです。
趣味に関して深い知識を持っているという点では、彼と僕とは同列のはずです。なのに僕はヲタクと呼ばれ、かたや彼はさわやかに女性をエスコートしている。「山ガール」(当時はまだ、この言葉がなかった)の存在に対する嫉妬(しっと)が心を乱すのです。
僕が女性に「予算に合わせてベストなデスクトップを組んであげるよ」というと、なぜ彼女は後ずさりして行ってしまうのでしょうか。
アウトドア野郎との間の壁、落差、差別。僕はこの激しい「アウェー感」に耐えながら、アウトドアショップに通っていました。
20世紀最後のころの僕は、こんな感じでもんもんとした日々を送っていた。
ビクトリノックスはもう少しコレクションを増やしたかったが、なぜか、たき火の横でハムを切っているイメージが浮かんできて、購入を断念したこともあった。魂を売るような気がして嫌だったのだ。
そのビクトリノックスが、21世紀直前の2000年、突然「PC対応」をキャッチコピーとしたマルチツールを発表した。それが「サイバーツール」である。秋葉原のPC店の工具売り場に初めて並んだスイス・アーミーナイフだろう。
それでも最初、僕らPC自作派は懐疑的だった。「アウトドア野郎に、PC自作の何が分かるというんだ」と。しかし店頭で手にとって見て、ほとんどの人がその場で購入した。しかもS氏(現+D Mobile編集長)のような「濃い」人ほど即買いしていたのである。
それほど、サイバーツールの機能は練り込まれていた。マニアに対する「くすぐり」がど真ん中ストライク! だった。写真で飛び出している工具が、そのすべてである。全部で40近い機能があるが、PCマニアはこれだけしか使わない。
まずドライバー。8種類のビットが付いている。プラスが3種、マイナスが1種、六角レンチが1種。ここまでは普通だ。そしてさらにトルクス(星型の特殊ドライバー)が3種類も付いている。トルクスはまれに、ノートPCなどで採用されていることがある(昔、コンパックのノートPCには「コンパック・オープナー」という工具が付属していた。これがトルクスである)。まずマニアは、ここでにやりとする。
次にプライヤー。これはチップセットなどに付けるヒートシンクを外すときに使う。2カ所のプラスチック製止め具の足をはさんで抜くのだ。
ハサミは、電源コードをキレイにまとめる「ロックタイ」というビニールの止め具の、余った部分を切るのに使う。PC自作派の美意識をよく理解しているといえる。
そして極め付きが5ミリのボックスレンチだ。付属のビットは4ミリ幅だが、その周囲を少し広げてレンチにしてあるのだ。
PCのコネクタは、その両側を2個の六角のネジで止める規格になっているものがある。例えば、拡張カードの金具(ブラケット)をロープロファイルに換えるときには5ミリのボックスレンチは必要になってくる。またこれもまれだが、コネクタのネジがマザーボードとケースを固定していたりする。こうなると、このレンチがないと、マザーボードの換装ができないのだ。
PC好きたちは、瞬時に以上のようなメッセージをサイバーツールから受け取った。そしてこの、フェンスを越えてきた、アウトドアからの金属を歓迎した。ベルリンの壁の崩壊を彷彿(ほうふつ)とさせる感激が渦巻いた。
金属に国境はない。
たった1つの金属製品で、違う人種同士が理解し合えることもあるのだ。
しかし、山ガールがこちらに振り向いてくれるかどうかは、また別の話だったりもする。この壁が崩壊する日は遠いか……。
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