> コラム 2003年6月3日 08:10 PM 更新

週刊ドットブック
最終回 ビートルズからシェイクスピアへ02(1/3)

メディアには終わりがあります。そのことを知らされたのはレーザーディスクです。DVDもまたいつか姿を消す技術の産物として運命づけられたビークルでしょう。

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 わからないことにもチャレンジしました。

 電子出版をすすめていくうえで参考にすべきいくつかの研究があったわけです。私たちも読み、学びしたのですが、そのすべては紙の本によって教えられるものでした。紙の本の偉大さは、ですから身に滲みてわかったのです。そのうえで、これを私たちなりのやり方で咀嚼しようとおもいましました。紙の本に記録された考えを電子的な時代にどう継承させていくことができるのかがテーマでした。

 認知科学のドン・ノーマン博士や、人工知能のマービン・ミンスキー博士の戸を叩き、率直に自分達の考えをはなし、教えを乞い、一緒になって電子出版する協力をお願いしたのです。近づきがたいような博士が考えられない気楽さと積極さで手をさしのべてくれました。それは私たちにとって大きな幸運でした。

 すでに音声との一致についてはやっていましたから、こんどは映像をとりこもうとしました。単純にフレームに切り取られた映像ではなく、本の中に“めり込んだ”映像を考えてみました。映像のフレームとは、ある意味で一つの区分けであり、融合というより境界という感じで受け入れられるものですから、本に“めり込む”とはならないのです。

 そこで、現実のスケールを無視して“本”のうえに人物を登場させてみました。背景を透明に抜いて、本の地色に同化させることによって違和感を無くした状況をつくり、身振りや語りかけをさせてみたのです。


ドン・ノーマン博士本人が登場して説明する。博士が手を差し出すと、掌の上に「時計マーク」が現れる。そしてアクセスの待ちを意味する「時計マーク」についての解説がなされると、今まで以上に強烈な印象となった。博士をスタジオでブルーバックで撮影し、背景を透明に抜いたQuickTimeムービーをはめ込んだ。<「機械時代における人間性の擁護」より>


随所に登場する博士。現実のスケールを無視できたので、本の表面を自由に歩いて説明しているかのような妙な親しみが感じられた。コンピュータのデスクトップのメタファーについて指差してみせたり(左)、本のメタファーを取り入れたボイジャーの電子本の表示画面についてその一つ一つを説明したりしている(右)。<「機械時代における人間性の擁護」より>

 米国でおこった電子出版の活動は、日本の私たちに多くの刺激を与えました。私たちはことあるごとにボイジャーのサンタモニカオフィスを訪ねて、起こりつつある胎動を自分のこととして受入れることに必死でした。そこは米国においてさえも特殊な変わった連中の巣窟だったわけで、日本の常識からはさらにまたかけ離れていたことは想像に難くないことでしょう。

 であるにもかかわらず、なにを自分たちがしようとしているのかについて、常に討議されました。理解する方法を高めるための努力が第一で、方法を普遍化し、経済的な壁と戦う意志を基準とすることを掲げていたことはたしかなことだったとおもいます。

 ボイジャーが推進した電子出版は、その多くを「エキスパンドブック(Expanded Book)」というソフトウェアによって開発されました。当然日本のチームはローカライズに当たったわけですが、結構な難問に遭遇しました。ここでも経済的な苦労が一番であることはかわりありません。そこで、東芝EMIが企画した映画監督“小津安二郎”の電子出版「The Complete OZU」を部分的に請負うかたちで下請けに入り、本格的な「エキスパンドブック」の日本語化の開発のテストケースとして “臨床実験”させてもらったのです。

 日本映画を海外に紹介した評論家ドナルド・リチーの著作、「小津安二郎の美学」を実際の映画から参照できる対応をしたのです。

 銀座でドナルド・リチー氏とお会いしたとき、もうご自身でさえ忘れかけているかつての仕事が、新しい時代に継承されていくことを非常に喜んでくれました。しかし後になってわかったのですが、米国のある大学出版局が「小津安二郎の美学」の版権を抑えており、リチー氏へは一円のお金もまわることはなかったのです。抑えられた権利の範囲は、今後出現するあらゆるメディアを含むとあったということです。


日本語版「エキスパンドブック」開発の試作となったCD-ROM「The Complete OZU」の版面。映画「浮草」で中村雁治郎と京マチ子が喧嘩する雨のシーンが表示されているが、今は亡き宮川一夫カメラマンの美しい映像と版面の色調が絶妙に調和している。ボイジャーの米国スタッフは、日本語版「エキスパンドブック」の仕上がりの質の高さに大きなため息を吐いた


コントロール・パレットは、日米まったく同じデザインだった。多重にウィンドウを表示することで注釈を入念につくった。小津安二郎の映画では、よく小料理屋がでてくるが、どの映画でも似通ったお馴染みの店構えだったことを説明している。<CD-ROM「The Complete OZU」より>


直筆のシナリオとリンクをとり「東京物語」のラストシーンの詳細を記録する。このラストシーンはトップシーンと対をなす構成である。東京へ旅仕度をする健やかな老夫婦のシーンは、ラストで、妻に先立たれ一人ぽっちになってしまった老夫のシーンに置きかわる。まったく変わりない尾道の同じ風景の中にそれは展開されている。日常という時間の中に確実に忍び込む人の別れを演出した特筆すべき効果といっていいだろう。<CD-ROM「The Complete OZU」より>

 日本的「縦書き」表示もなされましたし、ルビや禁則などについても配慮されました。しかし根本のところは、先行した事例から多くのことを学び、それを日本的状況の中へもってきたということです。「A Hard Dayユs Night」や「Poetry in Motion」といった黎明期の電子出版が目指したデザインの片鱗を、日本語の作品のなかに幾多も見ることができます。

 日本語は日本語でお互いに影響を与えていきました。例えば「The Complete OZU」と寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」を比較するとそのことがよくわかります。両者には明らかな共通点があり、版面のデザインを一つのインタフェースとして継承していこうとした形跡が見られます。

 このことはその時は気付かなかったことです。時間を経て、ようやくわかったことなのです。電子出版においてさえ、自分たちが連綿と続いていく流れのなかにあり、点と点を支えるように存在しているということなのでしょう。

[萩野正昭, ITmedia ]

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